九月のある日のことを、今でもよく覚えています。前職で施主と業者のマッチングを管理していた頃、大きな台風が近づいていた週でした。関東のあるお客様から、夕方にお電話をいただいたんです。「うちの足場、シートがそのままなんですけど、大丈夫でしょうか」と。声が少し震えていました。
そのお宅は前の週に足場が組まれ、外壁の洗浄が終わったところで工事が止まっていました。翌日には風がかなり強くなる予報が出ていた。それなのに、足場をぐるりと囲うメッシュシートは張られたままだったそうです。
足場にとって、あのシートはいわば帆なんですよね。塗料の飛散を防ぐために張るものですが、風を受ける面がまるごと出来上がってしまう。ですから風が強まる前にシートを畳んで束ねる、あるいは一部を外して風を抜いておく。現場では当たり前にやっている手当てです。
では、なぜ張ったままになるのか。悪意があるわけではないことも多いんです。
シートを畳んで、台風が過ぎたらまた張り直す。この作業には人手と時間がかかります。塗装の工程は止まっているのに、足場屋さんや職人さんが二度現場へ足を運ぶことになる。繁忙期で何軒も抱えていると、「このくらいの風なら」という判断が滑り込んでくるんですよね。私が見てきた中には、悪気なく段取りが追いつかず後回しになっていた現場もありました。
ただ、飛んでいく先はお客様の家の周りです。お隣の窓、道路、通りがかりの方。足場そのものが傾けば、そこから立て直しになります。以前ご相談をいただいた別のお客様では、台風の翌朝に足場の一部がずれていて、組み直しから始まって工期が二週間ほど後ろへ動きました。塗装の品質とは関係のないところで、お客様の予定だけが崩れていったんです。
荒天の前に一度現場へ寄ってシートを落としていく業者さんと、そのままにして通り過ぎるのを待つ業者さん。同じ工事代金をお支払いになっていても、この差は見積書のどこにも書かれていません。
天候で工事が止まるのは、外壁塗装ではごく普通のことです。雨の日に塗らないのは、むしろ誠実な判断だと思っています。難しさは、止まったあとの伝え方のほうにあります。
「台風なので今週は動けません」という一報が入るかどうか。次にいつ再開するのか、その見通しが共有されるかどうか。ここが抜けると、お客様は足場の組まれた家の中で、何日も宙ぶらりんな気持ちで過ごすことになります。窓は開けにくい、洗濯物は干せない、来客にも気を遣う。その状態が予告なく延びていくのは、金額の話ではなく暮らしの話なんですよね。
契約の段階で、天候による中断をどう扱うのか一度話しておくだけで、この不安はずいぶん軽くなります。荒天が見込まれるときに足場の養生をどうするのか。工期が延びた場合の連絡はどの手段で、いつ来るのか。交渉ではなく、確認のひとことで足ります。こうした質問に嫌な顔をせず答えてくれるかどうかは、その会社の姿勢をよく映すと感じています。
お客様の側でできることもあります。
荒天の予報が出たら、ベランダや庭に出してあるもの——植木鉢、物干し竿、サンダル、ゴミ箱——を屋内に入れておいてください。足場の下は、普段より物が動きやすい場所になっています。それと、できれば台風の前と後で、足場の様子をスマートフォンで撮っておいてほしいです。角度は適当でかまいません。何かがずれていた時に、いつからそうなっていたのかを落ち着いて話せる材料になります。
そして、荒天の前後に気になることがあったら、遠慮せずご連絡ください。「素人が口を出すようで」とためらわれる方がとても多いのですが、住んでいる方が一番よく気づきます。あの日お電話をくださったお客様も、ご自身の違和感を言葉にしてくださったおかげで、翌朝に足場屋さんが駆けつけてシートを落とすことができました。
業界に身を置いて二十年になりますが、外壁塗装は天気と真正面から付き合う仕事だと思っています。予定通りに進まないことは織り込み済みで、そこを責めたい気持ちはありません。
見ておきたいのは、荒れると分かった時に現場へ足を運ぶかどうか、そしてお客様に一本連絡を入れるかどうか。その二つだけです。地味で、写真にも残らず、見積書の項目にもならない。けれどお客様の家とご近所の安全を守っているのは、そういう手間のほうなんです。